日本経済政策学会大会(98年 5月23日 大阪学院大学)「共通論題」丹羽報告

正統派的ケインズ政策の有効性
−−産業空洞化克服 と 財政再建 の 問題に関連して−−


近年(ならびに現在)のわが国経済におけるデフレ・ギャップ deflationary gapは、きわめて大きい。言うまでもなく、この文脈における「デフレ・ギャップ」とは、労働力と資本設備の総合的な「完全雇用・完全操業」(摩擦的失業は別として)の状態での生産能力として把握されたマクロ的な「生産能力の上限」という「天井」から見て、実質GNP(ないし実質GDP)の水準が、「総需要」(有効需要支 出のマクロ的総額)の不足によって、どれだけ下回っているかという意味である。 したがって、それは、実質GNP(ないし実質GDP)の上下への波動をならして描いた「平均的な趨勢線」を基準と看做して、当該時点での現実の実質GNP(ないし実質GDP)の水準が、そこから、どれだけ下回っているかということと、混同されるようなことがあってはならない。なぜならば、1930年代の「世界大不況」のころの世界経済の状況と同様に、近年(ならびに現在)の日本経済においては、長期にわたって、そのような実質GNP(実質GDP)の「平均的な趨勢線」が、完全雇用・完全操業の「生産能力の上限」(天井)から見れば、はるかに下方の水準に停滞したままで推移しており、したがって、「完全雇用・完全操業」達成のための政策策定のためには、そういった低迷を続けている「平均的な趨勢線」を基準と看做すことは、誤りだからである。にもかかわらず、経企庁は、近年の各年度版の『経済白書』や『日本経済の現況』において、この後者の「平均的な趨勢線」からの乖離のみを「GDPギャップ」と称して示しているのであり、前者の本来的な意味での「デフレ・ギャップ」を計測して提示することを怠っている。このような経企庁の姿勢は、きわめてミス・リーディングであると言わねばならない。

上記の前者、すなわち完全雇用・完全操業の「生産能力の上限」という「天井」から見て実質生産水準が「総需要」の不足のゆえにどれだけ下回っているかという本来的な意味でのデフレ・ギャップの計測は、「生産関数」(長期生産関数)の理論を適用して行ないうるのであるが、近年のわが国の経済については、報告者(丹羽)による計測作業が、おそらく最も精密・妥当なものであろう。その計測作業の結果にてらしてみれば、現在の日本経済においては、デフレ・ギャップが、GNPベースで30〜40パーセントに達していることは疑問の余地がない。1)すなわち、「総需要」の不足によって、年間200〜300兆円もの潜在実質GNP(ないしGDP)が、実現されずに、空しく失われてしまっているのである。しかも、このデフレ・ギャップという形で失われる潜在GNPは、「天井」に若干の上向き勾配があることも手伝って、このところ、年々、増大していく傾向にあり、もし現在のような日本経済の低成長状態が続くとすれば、今後の10年間だけでも、このようにして失われる潜在NPの合計額は、4000兆円という天文学的な巨額に達するであろう。

言うまでもなく、このデフレ・ギャップという膨大な「生産能力の余裕」はマクロ的には、わが国の社会にとっての「真の財源」である。これを活用しさえすれば、雇用の増大と国民の生活水準の大幅引き上げをはじめ、国家財政の再建、社会資本の整備、防衛力の充実、社会保障の拡充、高齢社会の乗切り、自然環境の改善、対外援助の拡大、等々、すべて十分にやれるはずである。

ところが、これほどにも巨大な「真の財源」が存在しているにもかかわらず日本の社会は、たとえば「阪神・淡路大震災」で、まったくの不可抗力で住居や店舗など多額の個人資産をすべて失い、無一物の困窮という境遇に陥った数万人の人達に対しても、結局、ごくわずかの義援金(全壊1戸当たり20〜40万円)を与えるぐらいのことしかしていない。せいぜいのところ、被災者の一部の人達の住居として、粗末な「仮設住宅」を短い期限をきって貸与している程度のことにとどまっている。実は、震災の被災者支援が不十分なだけではない。「高齢社会」の到来につれて、貧窮状態や病苦になやむ老人たちの激増が必至であるにもかかわらず、いまや、わが国の社会保障システムは、年金制度や健康保険制度をはじめとして、財政面から破綻の危機にひんしており、その給付水準の大幅な実質的切り下げがはじまっている。まさに、ケインズが強く指摘してやまなかった「豊饒の中の貧困」の矛盾の極致である。さらに、わが国が、デフレ・ギャップを解消するための内需拡大を怠っていることによるわが国の事実上の「近隣窮乏化政策」の効果で、いまや、アジア諸国には深刻な経済危機が発生しており、それが「世界大不況」を誘発する危険も大きい。


ところが、現在、わが国においては、政党や政府も、学界も、論壇も、このようなデフレ・ギャップという形の巨大な「真の財源」を動員し活用しようという発想を、ほとんどまったく持ってはいない。その主たる理由は、「反ケインズ主義」の流行によるものであろう。いま、世に流行している「反ケインズ主義的」な議論、すなわち、「ケインズ的政策は効果が無い」と主張する見解は、大別して、「需要サイド」からの議論と「供給サイド」からの議論に分れるのであるが、そのなかで最もポピュラーなものは「需要サイド」からのもので、「乗数効果が働かなくなった」とする意見であろう。しかし、そのような主張は、まったく誤っている。

なぜならば、もしも、本当に「乗数効果」が作動しなくなったのであれば、 それは、人々が、食べるものも着るものも、いっさい購入しなくなったということであり、もし、そうであれば、文明の維持や国民所得(ないしGNPあるいはGDP)の形成といったことなどは、思いもよらないことになって、社会の人々は、その全員が飢え死にしてしまうはずだからである。もちろん、現実は、そんなことにはなっていない。すなわち、わが国の経済社会では、現在、1億2000万人の人々が年間500兆円ものGNP(ないしGDP)を生産しているのである。まさに、このことこそが、現在のわが国の経済において「乗数効果」がいぜんとして健在であることの、疑う余地の無い証明なのである。
 ここで、ぜひとも想起すべき重要なことは、わが国の名目タームでの「国民 総支出」に占める (1) 「民間最終消費支出」と (2) 「民間投資支出+政府支出+経常収支黒字」の相対的な割合が、1975年ごろから現在まで、ほとんど一定と看做しうるほどに安定的であるということであろう。きわめて初歩的な経済理論上の定理にすぎないが、「国民所得額」(ないしGNP、GDP 額)に対する「自生的(autonomous)な有効需要支出額」の割合がこのように一定しているときには、前者を後者で割って算定される比率(倍率)が、両者の「増加額」の比率、すなわち「ケインズ乗数値」に等しくなる。いま、上記の(2)「民間投資支出+政府支出+経常収支黒字」を「自生的有効需要支出」であると看做すとすれば(これは妥当な想定であろう)、近年のわが国の国民所得勘定においては、このように定義された「自生的有効需要支出額」が粗国民所得額であるGNP額に占める比率は、おおむね、41〜43パーセントであって、ほぼ一定に推移してきている(この比率が一定ということは、「民間最終消費支出」が、ほぼ完全に、「恒常所得」のみならず「変動所得」をも含めた粗国民所得額に依存して決まっており、ゆえに、「自生的消費支出」がネグリジブルであるということをも意味している)。したがって、100パーセントをこの41〜43パーセントで割り算すれば、現在のわが国経済における「ケインズ乗数」の値が2.4前後であるということが判明するのである。

現在のわが国の経済において「乗数効果」がどの程度に作用するのかという重大問題をめぐってのあらゆる議論は、まずもって、この2.4前後という疑う余地の無い客観的・実証的な値を直視することから始めるべきである。この 値と整合性を持ちえないような見解は、それだけの理由だけでも失格であろう。


ここで、わが国の経済専門家たちのあいだでも、ともすれば誤って信じられがちな次の二つの「乗数効果否定論」についてもコメントしておくことにする。
 (1) 産業連関分析によれば、現在のわが国の経済においては売上額の産業間波及効果が小さくなっているから、ケインズ的乗数効果も小さくなっているとする説 ・・・・ この説は、「レオンチエフ乗数」と「ケインズ乗数」とを混同するという初歩的な間違いによるものである。現在、わが国の経済でも、原料や部分品の投入をあまり必要としないサービス産業のウェートが大きくなっ てきているために、産業連関分析的な意味での「産業間の売上額の波及効果」 は、徐々に小さくなってきていることは確かである。すなわち、「レオンチエフ乗数」の値は低下趨勢にある。しかし、だからといって、所得の波及効果を示す「ケインズ乗数」の値が小さくならねばならないといった理由は、なんら存しない。この両乗数の概念や作用は、相互に、まったく別個のものなのである。
 (2) 利子率の高騰といった「副作用」を考慮に入れれば、実際には、乗数効 果はきわめて小さいものでしかないとする説 ・・・・ これは、いわゆる「クラウディング・アウト」現象の発現、すなわち、景気刺激のための積極財政の財源を(とくに、それに先立つような)国債の市中消化に求めた場合には、国債の購入代金という形で民間の資金が国庫に吸上げられるために、一時的にせよ、マネー・サプライが減少して「LM曲線」が左方シフトし、民間資金市場 での資金不足と市中金利の高騰が起り、それによって民間投資の減退と景況の 悪化がもたらされかねないということが、主要な問題点であると言ってよい。また、そればかりではなく、たとえマネー・サプライに変化が無く「LM曲線」の位置が不変であっても、そういった積極的な財政政策で景気が刺激されれば、それによる経済成長の加速ということそれ自体が、「LM曲線」の勾配を這い上がるような性質の金利高騰と、それによる民間投資の減退をうながす要因にもなると論じられている。また、そのようなわが国の国内金利の上昇が生じれば、それによって資金の外国からの純流入が増加(外国への資金純流出が減少)し、「円高」がもたらされ、結局、輸出が不振となって、景気回復は挫折するにいたるのではないかとも、説かれている(いわゆる「マンデル=フレミング効果」)。かくて、これらの「副作用」をすべて考慮に入れればケインズ的な積極的財政支出の「乗数効果」は、しょせん、きわめて小さなものにすぎなくなるのだとする、ネガティブな主張がなされることになるわけである。
 しかし、このような国内金利の上昇という「副作用」の発現は、政策当局がその気になりさえすれば、簡単かつ容易に、それを防止することができるはずのものである。最も通例的・常識的な方策としては、「中央銀行」(わが国の場合であれば日本銀行)が適切な規模で「買いオペ」を行なってマネー・サプライを増加させ、「LM曲線」を右方シフトさせさえすれば、それでよいはずである。2)もちろん、戦前に高橋是清蔵相と深井英五日銀総裁が協力して実施したように、新規発行国債を日銀が直接に引き受けるという方式であれば、いっそう決定的で即効的であろう。あるいは、また、ラーナー(A. P. Lerner) の古典的な名著『雇用の経済学』(Economics of Employment ,1951, p.8)で強く推奨されているように、そして、明治維新の当初に実際にわが国でも行なわれたように、政府が、政府自身で「政府紙幣」(したがって「銀行券」ではない)を発行して、それを積極的財政政策の財源にするといった方策を実施することもできるはずである。言うまでもなく、この場合には、金利高騰の心配などは、まったく無くなる。そして、当然のことながら、この方策による場合には、後年になって「国債費」が政府財政の負担になるといったことも無いわけであり、「財政再建」もきわめて容易に達成されうることになる。

いずれにせよ、このように、金利の高騰という「副作用」を防止してしまえば、たとえケインズ的な積極財政をどんなに大規模に実施したところで、マンデル=フレミング流の分析で予言されているような 国内金利の上昇に由来する「円高」の進行によって景気政策が挫折するといった事態が生じるようなことは、まったくありえないことになる。それどころか、マクロ的に完全雇用・完全操業の達成に急速に接近していけるほどに大幅に内需が拡大されれば、わが産業による輸出ドライブが緩和され、また、わが国への外国産品の輸入が大きく伸びるであろうから、現行の「フロート制」(変動為替相場制度)を前提とするかぎり、必然的に、為替レートは相当に「円安」に決まることになる。そうなれば、わが国の産業は、労せずして、対外競争力を大幅に回復することができ、わが産業の「空洞化」の危険は雲散霧消してしまうはずなのである。

そもそも、クラウディング・アウト現象を発生させてしまって金利高騰による民間投資の失速といった「副作用」をまねくような財政政策は、「ケインズ的財政政策」の名に値しないであろう。この世にケインズ的政策体系のコンセプトが登場したときから、景気振興のための財政政策には、必ず、上述のように「中央銀行」による「買いオペ」などの金融政策のバック・アップを付けて有害な金利高騰という「副作用」の発生を防止しつつそれを行なわねばならないということが、基本ルールであったはずである。3)すなわち、マクロ政策運営のための基礎理論や合理的ノウハウは、数十年も前から、すでに十二分に明らかにされて確立されてきているのである。われわれは、深刻な経済不況に直面しているいまこそ、このことを真剣に再認識すべきであろう。
 ここで、念のため、付言しておくが、宮沢内閣の時代より最近まで、数次にわたって、合計数十兆円規模と称する「総合経済対策」が行なわれたとされているにもかかわらず、みるべき景気浮揚効果が生じていないのは「乗数効果」が働かなかったからではない。すなわち、この「総合経済対策」なるものにおいて、「有効需要支出」へのネットの政策的追加額__いわゆる「真水」 __ が、各年度の本予算(当初予算)の伸びが近年においてはいちじるしく抑制・削減されてきて大きな景気冷却効果がもたらされているということとの差し引きで見れば、事実上、マイナスでしかないような微々たるものとされてしまっていたからこそ、景気浮揚が成就されえなかったのである。


次に、「供給サイド」からの観点からする「ケインズ的政策無効論」についても、コメントしておきたい。4)
 「反ケインズ主義的」な立場の経済学者たち(新古典派など)が、その「供給サイド」からの「ケインズ的政策無効論」を立論するにさいして、基本的に立脚しているのは、「供給曲線」(短期供給曲線)の実質ベースでのシフト(右方シフト)がしたがって「生産関数」(短期生産関数)の同じく実質ベースの右方シフトが起りえないものだとする「暗黙の前提」である。率直に言えば、これは、「理論的トリック」にほかならないと評するべきであろう。
 もちろん、そのような奇妙かつ不条理な「暗黙の前提」は妥当なものとは認め難い。なぜならば、そもそも、需要曲線と供給曲線の交点で財の価格と需給量が決まるという周知の「需要・供給の法則」とともに、この両曲線が、それぞれの諸条件の変化に応じて、そして、しばしばこの両者が相互に反応しつつ名目タームでも実質タームでも、きわめて多様かつ大幅にシフトしうると考えられているということこそが、経済理論における最も貴重かつ不可欠な中核的 部分をなしているからである。このような、両曲線のシフト(とくに実質タームでのシフト)がありうるからこそ、市場経済的な人類文明における経済発展 ということが、ありうるのである。
 現実的に具体的に考えてみても、たとえば、不況期に有効需要の不足で遊休していた生産設備が、需要の回復にともなって稼働しはじめたような場合には生産性がきわめて大幅に向上し利潤も大きく増える(そして、物価は安定的)という現象が、ほとんど例外なしに見られるのであるが(現在の日本経済でも有効需要さえ増えれば、そのような結果が十分に期待しうる)、これは、有効需要の伸びに対応する企業資本設備の「稼働率」上昇による「生産関数」(短期生産関数)のいわゆる「右方シフト」_したがって、「供給曲線(短期)」=「企業の限界費用曲線」の「右方シフト」_の効果であると考えられる。「ケインズ的短期」でのこのような効果があればこそ、企業は、需要増加が見込まれるときには、一時的な「稼動率」低下をしのんでも、中・長期的に資本 設備の増設に踏切ることができるのである。かくして、多少の上下変動をとも なってはいても有効需要の増加が続くとすれば、個々の「収穫逓減的」な「短期生産関数」が継起的に「右方シフト」していくことになり、そのシフトの軌跡の包絡線としての「中・長期生産関数」として見れば、結果的に「収穫逓減=費用逓増」は克服され、多くの近代的産業で現実に見られるように「収穫一定的」ないし「収穫逓増的=費用逓減的」となりうるのである。市場経済的な人類文明に経済的進歩をもたらしてきた主要な動因は、短期的にも、中・長期的にも、まさに、このような関数シフトのメカニズムなのである。ケインズ的政策とは、基本的には、市場経済体制におけるそのような力強い「生産関数」(ないし「供給曲線」)のシフトのメカニズムに信頼を置いている政策体系にほかならない。(「45度線モデル」とは、デフレ・ギャップの下での上記のごとき有効需要変化に対応する「短期生産関数」のシフトの結果として「収穫逓減」が克服された状況を単純化して端的に示したものと考えうるであろう。)

しかし、「新古典派」の「反ケインズ主義者」たちは、市場経済に対するそのような信頼の念を持とうとはせず、「生産関数(短期)」ないし「供給曲線」の「右方シフト」がありえないものと決めこんでしまおうとする。そのために、かれらは、景気の下降や上昇の諸局面を通じて、企業資本設備の「稼働率」に変動がないものと仮定するにいたっている。これは、景気の下降や上昇にもかかわらず、企業資本設備の「稼働率」が常に100パーセントであり、設備の遊休がゼロであるとする非現実的なことを、暗黙のうちに前提しているのと同じである。「理論的トリック」と評されねばならないゆえんである。
 言うまでもなく、そのような「理論的トリック」を仕組んでしまえば、そのあとは、そこから、どんなにでも思うがままにニヒリスティックな結論を__すなわち、たとえ有効需要支出をマクロ政策的にどんなに大幅に増やしたとしても、それによって生産や雇用を拡大させるといったことは、しょせん、できはしないのであって、ただ、物価が上昇するだけだ、と決めつけるようなシニカルな結論を__いくらでも導き出すことができることになる。ルーカス(R. E. Lucas)などの「合理的期待形成論」学派による「ケインズ的政策無効論」の理論体系は、まさに、このような「理論的トリック」に基づいて構築されているものにほかならない。フリードマン(M. Friedman)の理論も同根である。実は、ルーカスたちのこのような論理にしたがうとすれば、「政府の政策」などとは無関係に、純粋に民間の経済活動によって「総需要」が増えたような場合であっても、雇用や生産はまったく増えず、ただ、物価が上昇するだけだとする、きわめてペシミスティックで「反市場経済的」な結論となってしまうのである。言うまでもなく、そのような「理論的トリック」によるニヒリスティックな結論は、まったくミス・リーディングであり、それに基づいて実際の経済政策の策定を行なうといったことが、もし、なされるとすれば、それは、この上もなく危険であろう。

なお、ここで、きわめて重要なことを二つ指摘しておきたい。すなわち、第一に、上述のごとく、デフレ・ギャップが存在しているという条件下において、有効需要の増加がケインズ的政策などの効果でもたらされたような場合に、それに対応しての企業資本設備の「稼働率」の上昇による「生産関数」(短期生産関数)の「右方シフト」が生じるのが通例であるという現実を認めるとすれば、労働市場における「労働供給関数」が人々(労働者階層)の合理的「期待 (予測)物価水準」に基づいて形成されているものと考える周知の「合理的期待 形成仮説」を前提した「ルーカス的世界」においても、「ケインズ的政策」は有効でありうる場合が多いという結論になるということである。さらに、それ に加えて、同じくデフレ・ギャップの発生という条件下で、名目賃金率ならび に物価水準に下方硬直性があり、したがって、「労働供給曲線」の勾配のフラット部分に労働市場の現実の需給均衡点が存在する可能性が高いものと想定した場合には、この「ルーカス的世界」においても「ケインズ的政策が有効である」という結論は、ほぼ確定的なものとなりうるのである。このような論理からすれば、正統派的「ケインズ的政策」理論における「ミクロ的基礎」は、「ルーカス体系的」な意味合いで「強固」であると、言いうることになろう。 ここで指摘しておくべき第二の点は、同じく、有効需要の回復に対応する遊休資本設備の稼働開始で、「短期生産関数」の「右方シフト」による生産性の 大幅上昇が生じるのが、むしろ、通例的な現実であるとすれば、「物価についてのフィリップス曲線」の勾配は、多くの場合、「右下がり」にはならないで、むしろ、フラットか、あるいは、若干、「右上がり」にさえなるはずだということである。そして、そうである以上は、フリードマンの「フィリップス曲線の上方シフト」という考え方に基づく有名な「ケインズ的政策無効論」は、上記のルーカスたち「合理的期待形成論」学派のそれとともに、一挙に、その理論的な基盤のすべてを失うことになってしまわざるをえないのである。実は、ずっと以前から、報告者(丹羽)と勝木太一氏との共同研究による日本経済についての計量モデルの推計とそれによるシミュレーション分析によって、日本経済の「物価についてのフィリップス曲線」の勾配が、「右下がり」ではなく、むしろ、「右上がり」であるということが、実証されてきたのであるが、近年においても、たとえば、平成7年度に日本学術会議の「日本学術協力財団」への委託調査研究プロジェクトの一環として行なわれた日本経済についての計量経済学的モデルによるシミュレーション作業(上記の勝木太一・松阪大学教授担当)でも、やはり、やや「右上がり」の勾配を持った「物価についてのフィリップス曲線」が実証的に計測されたのである。5)


実は、以上の論述の多くは、大多数のエコノミストにとっては、本来的には、きわめて常識的、かつ、ほとんど疑う余地の無いような知識であるべきはずのことでありながら、最近のわが国の経済論壇ではつい忘れられがちとなっているような初歩的・基本的な幾つかの経済学的知見を、想起してみただけのことにすぎない。しかし、それによって、われわれは、近年における諸種の「反ケインズ主義的」経済論の流行にもかかわらず、理論的には「ケインズ的政策」がいぜんとして有効であるということを、再確認しえたといってよいであろう。すなわち、そのような再確認に立脚して、正統派的な「ケインズ主義的」政策によってデフレ・ギャップという「真の財源」を活用しつつ、「豊饒の中の貧困」の矛盾を解消させていくことによって、わが国の経済の再生と興隆をはかるべきであると、われわれは、自信を持って提言してよいのである。とは言え、現在、わが国の国家財政が容易ならぬ「破綻状態」にあるということも、現実であろう。だとすれば、そのような「財政破綻」に陥っているわが政府が、具体的にどうやれば、上記の「真の財源」を実際に使うことができるようになるのであろうか?もちろん、幾つもの方法が考えられるのであるが、現在のわが国経済の諸種の状況を考慮すれば、端的に言って、最も簡単明瞭な方法であるところの、上述の「政府紙幣」(したがって「日銀券」ではない)の発行という方策をとるのが良いと思われる。( ただし、この「政府紙幣」については、日銀に対して、顧客から要求があった場合には、その額面と等価で「日銀券」との交換に応じることを義務づけておく必要があろう。)

古来、政府が財政収入を得るみちとしては、(イ)租税徴収、(ロ)国債発行、(ハ)通貨発行、の三つの手段があるということは、周知のところである。そして、現在の日本においては、この(イ)と(ロ)とがほぼ限界にきているとすれば、当然、(ハ)の「通貨発行」(現実的には「政府紙幣」の発行)に依拠するべきなのである。と言うよりは、いっそう根源的に見れば、ラーナーが上掲の『雇用の経済学』(上掲原書、pp.11-12)で強調したように、そもそも、政府支出を まかなうということのためには、印刷機の働きによる(ハ)の「通貨発行」に依拠すれば、それで足りるのであって、(イ)の租税徴収と(ロ)の国債発行は、マクロ的には、ただ単に、過剰購買力を削減してインフレ・ギャップの発生を防止するための政策手段でしかないのである。もちろん、このように、政府自身が「通貨」(政府紙幣)を発行する場合には、政府は、それに対して利子を支払ったり、元本を返済したりする必要はなく、その発行額は、正真正銘、政府の財政収入になる。もとより、将来世代の負担などには、まったくならない。あるいは、実際には「政府紙幣」を印刷・発行しなくとも、たとえば100兆円分とか200兆円ぶんの「政府紙幣」の「発行権」を政府が日銀に売るという方法でも、同じ結果が得られるであろう。よく知られているように、明治維新のさいにも、徳川幕府崩壊の衝撃で全般的に経済活動が委縮・麻痺し、江戸のまちが「灯の消えたように」さびれたと伝えられているほどに、相当に深刻なデフレ・ギャップが発生していた。上述のごとく、当時の維新政府は、由利公正の献策にしたがって「太政官札」(その後では「民部省札」)という「政府紙幣」を大量に発行し、それを財源として「文明開化」のための諸施策への支出を思い切って積極的に行ない、経済の高度成長と急速な近代化を実現しえたのであった。しかも、デフレ・ギャップが存在していたために、「西南戦争」が勃発(明治10年)するまでは、物価も安定基調を保ちえたのである。明治維新が成功したのは、このように「政府紙幣」の発行を断行して、デフレ・ギャップという「真の財源」を活用することができたからである。現在、深刻な不況と財政破綻に直面しているわれわれは、いまこそ、明治維新のさいの「太政官札」の故知にならうべきなのである。


 要するに、現在のわが国の政府は「政府紙幣」の発行という手段を用いれば、ほとんど無尽蔵の「打ち出の小槌」を振ることができる立場にあるのである。それでは、この「打ち出の小槌」をどのようなやり方で振ればよいのか?もちろん、わが国の社会資本や環境財などはまだまだ不備・劣悪であり、社会保障や防衛力も不十分かつ脆弱であるから、それらを整備・充実するための支出を通じて総需要を拡大し、それによってわが国の経済を不況・停滞から脱却させて興隆に向かわせるというやり方が、本来的には、最も合理的である。しかし、残念ながら、現状は、各省庁や地方自治体において、そのための企画・設計などの準備が、あまりにもできていない。
 結局、わが国の現状においては、おそらく最善の政策は、政府が、この「打ち出の小槌」を利用して、全国民につまり、老人から乳児にまでいたるすべてのわが国民に一律、一人当たり40万円程度の「臨時ボーナス」を支給するということであろう。また、これとは別途に、住居や店舗などの個人資産のすべてを失ってしまったような震災被災者たちに、総額数兆円の被害保障を与えることも考えてしかるべきである。すなわち、このような措置によって、わが国民には、総額55兆円前後の追加所得が政策的に与えられることになるわけであるが、それによる「波及効果」(すなわち「乗数効果」であるが、この場合には、この追加所得からの直接的な消費支出による乗数効果だけではなく、いったんは貯蓄されたあとで実物投資に再支出されることから生じる乗数効果も算入して考えるべきである)によって、1年半から2年ぐらいのあいだに、100兆円以上の国民所得(ないしGNP、GDP)の増加がもたらされるはずである。その後も、同様な政策(国民への「臨時ボーナス」支給)をしばらく続けることは十分に可能であり、むしろ、必要であろう。かくて、わが国は、不況・停滞を完全に脱却して「高度成長経済」を再現しうることになる。
 言うまでもなく、わが国の経済システムは、基本的には、「消費者主権」のメカニズムが作動する市場経済であるから、上述のような全国民に一律に「臨時ボーナス」を与えることによる消費者支出からの景気刺激政策の場合には、ことさらに「構造改革政策」などを実施しなくても、消費者支出と商品供給とのあいだに重大なミス・マッチが生じたり、経済構造・産業構造に不自然な歪みが現れてきたりする心配はない。また、このような政策であれば、減税政策などよりも、ずっと公平で手間がかからず、政府機構が肥大化する怖れもなく、即効的で決定的に確実な効果が得られる。しかも、「政府紙幣」の発行を財源としている以上は、クラウディング・アウト現象が生じる危険も皆無である。また、そのように「高度成長」が再現されれば、「政府歳入の所得弾性値」が1.0を大幅に上回るようになってくるために、上記の「打ち出の小槌」による収入を勘定に入れなくても、わが政府財政は、ゆうゆうと黒字化することになろう。もちろん、「打ち出の小槌」に加えて財政収支がそのように好転するということになれば、いまやその残高が260兆円(平成9年度末見込み)にも達しているとして憂慮されているところの既発国債を償還・回収すること も、容易になしうるようになるに違いない。


ここで、上記のごとき大規模な「正統派ケインズ主義的」内需拡大政策に関連して、留意すべきと思われる重要なことを5点、記しておく。

[1] まず強調しておくべきことは、上記のような大規模なケインズ的政策が実施されたときには、決定的で即効的な需要拡大効果が、必ず生じるということである。上述の乗数効果の再確認の論旨で明らかなように、このことに疑念をもつ必要は、まったく無いのである。

[2] しかも、巨大なデフレ・ギャップが存在している現在のわが国の経済においては、「需要インフレ的」な物価高騰が生じる怖れも、まったく無い。それが生じるとすれば、それは、「ルーカス的」な「理論的トリック」がそのままの形で妥当性を持つ場合にかぎられるであろうが、上述のごとく、そういうような妥当性は、とうてい認められない。なお、この点に関しては、デフレ・ギャップとインフレ・ギャップの同時発生は「理論的にぜったいにありえない」ことだという経済理論の基本的定理に、常に留意すべきであろう。

[3] 現在のわが国経済では、現実の生産水準が「天井」(完全雇用・完全操業での生産能力の上限)よりもはるかに低い水準に落込んでいて(すなわち デフレ・ギャップ)、そこからの回復が課題なのであるから、たとえ経済社会の「成熟」で「潜在成長率」(すなわち天井の勾配)が低くなってきていても、当面のわが国経済の回復・成長にとっては、それは制約要因にはならない。

[4] いま、わが国で、朝野をあげて声高に叫ばれている「規制緩和」という政策によってわが国経済が不況・停滞を脱することができるかどうかは、それによって(たとえば民間投資支出が刺激・誘発されて)「総需要」(すなわち「有効需要支出」のマクロ的総額)が増えるかどうかに、かかっている。いかに懸命に「規制緩和」につとめたとしても、「総需要」が増えなければ、わが国経済の不況・停滞は続くことにならざるをえない。そして、「規制緩和」によって「総需要」が増えることになるかどうかは、本質的に不確実なのである。それとは対照的に、上述したような「全国民に臨時ボーナス支給」といった正統派的な「ケインズ的政策」は、100パーセント確実に「総需要」を拡大させうるのである。したがって、政策の優先度は「ケインズ的政策」のほうがはるかに高くあるべきである。したがって、「規制緩和」(1980年代では「民間活力の利用」)で「ケインズ的政策」の代用をつとめさせようという政策姿勢は、根本的に間違っている。なお、「リストラ」や「行革」は、本質的に、「合成の誤謬」のメカニズムにより「総需要」を減少させる「デフレ要因」であり、マクロ的には、不況・停滞を激化させるものにほかならない。

[5] 政府あるいは日銀が、「政府紙幣」(あるいは、それとの両替で出された「日銀券」)という「打ち出の小槌」を用いて、国内の民間投資家の手から大量の既発国債を買い取って回収しようとする場合には、そのさいに民間に渡される巨額の代金は、必ずしも「有効需要支出」にはならないだけに、やはり「過剰流動性」問題の発現を予期しておかねばなるまい(ただし、その場合でも、インフレ・ギャップが発生するわけではないから、一般物価の高騰が起るようなことはないであろうが・・・・)。たとえば、この「政府紙幣」(または、それとの両替で出された「日銀券」)で、「円高」の阻止・是正をかねて、日本政府あるいは日銀が米国の公債を大量に買い付け、その米国の公債との等価交換で、わが国内の投資家からわが国の既発国債を買い取って回収する(したがって、国内投資家には米国の公債を代償として渡す)といったやり方をすれば、わが国内の「過剰流動性」発生を回避しうるはずである。これは、かなり巧妙な推奨すべき方策であると言えよう。


 最後に、為替レートと「産業空洞化」の問題を、若干、考察しておきたい。もしも、本稿で示唆・提言されたような十分な規模のケインズ的内需拡大政策が実施され、日本経済が、デフレ・ギャップを解消して完全雇用・完全操業の「国内均衡」状態の近傍に到達するにいたったとすれば、上記でも述べたように、わが産業の「輸出ドライブ」が弛み、わが国による外国産品の輸入は大幅に増加するであろうから、現行の「フロート制」のメカニズムを前提にして考えると、為替レートは、おそらく150 〜 170円 = 1ドル といったものになるであろう。これこそが「国内均衡」と「対外均衡」を(近似的にではあるにせよ)同時に達成させるような、正常な「均衡為替レート」なのである。6) また、それに立脚した国際分業こそが「正常な」国際分業なのである。
 したがって、これまでの、内需不足による超大規模のデフレ・ギャップの永続的発生という状態に照応して、上下の振幅をともないながらも長期趨勢的に進行してきたはなはだしい「円高」と、それに促されて「モノ作り産業」をどんどん切り捨ててきた近年のわが国経済の「構造調整」や「産業空洞化」は、まことに「異常な」ものでしかなかったわけである。しかし、「完全雇用・完全操業」の「国内均衡」に照応した上記の150〜170円 =1ドル といった「均衡為替レート」の下であれば、わが国が「産業空洞化」問題に苦しめられる恐れは、ほとんどなくなるのである。
 また、そうなれば、仮に、わが国の産業が、なんらかの「国際的な絶対的実質尺度」で測られたその生産効率とコストにおいて、たとえば「アジアNIES」諸国に「追いこされた」といったことになったとしても、なにも驚き慌てる必要はないことになろう。なぜならば、現行の「フロート制」のメカニズムを前提として考えるかぎり、ケインズ的政策によって内需が十分に保たれてデフレ・ギャップの発生が防止されてさえいれば、ちょうどゴルフの競技のように、「追いこされた」わが国産業のために、為替レートが「円安」といった形でハンディキャップを与えてくれて、「追いこした」側と世界市場で対等に競争しうるように仕向けてくれるはずだからである。
 実は、ケインズ的な政策によってもたらされる「完全雇用・完全操業」の状態に裏打ちされているべきだという必要条件が充足されているということを大前提とした場合、「フロート制」の下で形成される為替レートの本来的な働きとは、まさに、そのような「ハンディキャップ供与」の機能にほかならないのである。そのようなシステムの本来的な機能が働きはじめたときにこそ、全世界の国ぐには、本当の意味で、「国際分業の利益」を享受しうるようになる。そして、そうなったときこそ、わが国経済の膨大な「生産能力」が、全人類のために真に貢献しうるようになるときなのである。それは、まさに、人類文明の「黄金時代」の到来を意味するものであろう。しかし、もしも、現在のような「反ケインズ主義」の全世界的な支配的流行が続き、それによるマインド・コントロールによって、わが国をはじめ各国において「ケインズ的政策」の発動が封止されたままであるならば、わが国の経済が不況・停滞に苦しめられるばかりではなく、グローバルにも、1930年代型の「世界大不況」が発生してしまう危険性が非常に高いと考えねばならない。人類文明にとって、その惨害は、言語に絶して怖るべきものとなろう。

  • 注 1 丹羽春喜「日本経済におけるデフレ・ギャップの規模」、『経済論集』(大阪学院大学)、9巻 1号 所収を参照せよ。
  • 注 2 数式的証明は、丹羽春喜「ケインズ的政策パラダイムの有効性についての理論的考察」、『経済論集』10巻 1・2・3合併号、37-40ページを見よ。
  • 注 3 A. P. Lerner, Economics of Employment, 1951, p.10を参照せよ。
  • 注 4 本節の論述内容のいっそう厳密な経済理論的論証は、上掲、経済論集』、10巻 1・2・3合併号所収、丹羽論文、40-79 ページに示されている。
  • 注 5 勝木太一 「日本経済のマクロ計量経済モデルによるシミュレーション分析」、『空洞化克服への道』、日本学術会議事務局、平成8年3月刊所収を見よ。また、丹羽春喜、勝木太一「防衛支出を中心とした総需要拡大政策の経済効果」、『現代の安全保障』1982年12月号所収をも参照せよ。
  • 注 6 より精密な数理経済学的論述は、H. Niwa and K.Miyamoto, "Trade Balance in the Floating Exchange-Rate System and IS-LM Framework: A Theoretical Analysis on the US-Japan Imbalance and the Recom- mendable Policy-Mix", Asian Economic Journal, Vol. 5, No. 2, Sept. 1991 で展開されている。

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