新古典派は市場原理否認:新古典派「反ケインズ主義」は市場原理を尊重していない

『自由』平成19年7月号

はたして不真面目なジョークなのか?

ケインズの言ったことのうちで、最も有名であり、経済理論的にも全く正しいことでありながら、評判の悪いことでは、おそらく随一ともいうべきものを、ここで、まず、想い起こしてみよう。

すなわち、ケインズは、かれの主著『雇用、利子、貨幣の一般理論』(1936年)のなかで、経済が不況・停滞に苦しんでいるようなときには、失業者たちを集めてきて、無用な大きな穴を掘らせ、すぐにまた、それを埋めさせるといった無意味な仕事でもよいから働かせて、賃金を支払ってやればよい。そうすれば、そのことが、そのような失業労働者たちの消費支出の拡大をもたらすから、不況・停滞の克服に役立つであろうと述べたのである。その後、これと同種の政策案のイメージは、いわゆる「ヘリコプター・マネー」として、経済学の教科書で、しばしば言及されつつ現在におよんでいる。すなわち、ヘリコプターの大編隊が、市町村の上空から大量の紙幣をばら撒くことをすれば、それが景気回復に役立つはずだというわけである。もちろん、このような施策を実際に行なう場合には、上空から紙幣をばら撒くようなことではなく、全国民のそれぞれの預金口座に政府が所定の金額を振り込むといった方式となるであろうが、いずれにせよ、そのような施策の意味合いは、「ヘリコプター・マネー」のイメージで、よく表現されていると言ってよいであろう。

確かに、ケインズの「無用な穴を掘らせて、すぐに埋めさせる」という提案も、そして、経済学の教科書でしばしば目にする政策イメージとしての「ヘリコプター・マネー」も、もしも本当にそれらが現実に実行されれば、必ず、不況・停滞からの脱却に大きく役立つはずである。しかし、「反ケインズ主義」陣営が支配権をにぎっている現実の論壇では、このような政策案は、それらが「不真面目なジョーク」であるかのごとく扱われてしまっているようである。

最近では、「穴を掘らせて、すぐ埋めさせる」とか「ヘリコプター・マネー」といった政策案がジョーク扱いされているだけではなく、社会資本の建設のための公共投資までが、それらは「生産力向上」のためにはあまり役立たないものであるとして、「そのような公共投資を行なっても、景気振興や経済成長促進の効果は無い!」と論じられていることが多くなっている。「反ケインズ主義」陣営の論者たちが、そう言っているだけではなく、かつてはケインズ主義にかなりの理解を持っていたはずのエコノミストたち、それも、かなり著名な経済学者たちまでが、「反ケインズ主義」の支配という「世の風潮」に迎合しようとするためであろうか、そういった奇妙なことを大新聞の紙上などで臆面も無く言い立てるようになってきているのが、わが国の経済論壇の現状である。

言うまでもなく、そのような「公共投資などは、経済の不況・低迷を脱却させるのには役立たず、無効だ!」とする「反ケインズ主義的な」主張は、経済理論にてらして吟味して見るならば、はなはだしい誤りであることがすぐにわかるはずである。なぜならば、自由企業制度に基づく市場経済システムであるかぎりは、そして、生産能力に特段の制約が生じているようなことがなければ、「公共投資」はもちろんのこと、「穴を掘らせて、すぐ埋めさせる」にせよ、「ヘリコプター・マネー」の散布にせよ、「全国民の預金口座に政府から漏れなく所定の金額が振り込まれる」場合にせよ、どんなやり方であろうとも、とにかく、人々のマネタリーな所得が政策的に増加させられ、そういった施策によって人々の消費支出が増えれば、それに即応して諸商品の生産・供給も増え、雇用も増え、景気を上向かせて経済成長に貢献することになるのは、明らかなところであるからである。

ただし、「新古典派」経済学者グループの理論家ルーカス(R. E. Lucas)が行なっているように、「需要が増えても、企業は、生産設備の稼働率を高めてそれに応じるようなことはしない」ものとするといった奇妙かつ不自然な仮定を置けば、話は別である。しかし、本稿で、わざわざ、そのような、はなはだしく非現実的な仮定に基づいてまで、考察を進めるような必要はないであろう。

消費者主権の原理を無視・忘却

政府の公共投資などによる財政支出の増加によって、政策的に人々のマネタリーな所得が高められて消費支出が増えても、上述のごとく、それには「生産力向上」の効果がともなっていないとして、景気回復や経済成長を促進する効果が無いと主張する「反ケインズ」主義者たちの奇妙な見解は、つきつめていくと、自由企業制度に基づく市場経済システムの主要な幾つかのメリット、そのなかでも、とくに「消費者主権」のメカニズムを無視・忘却していることから来ているように思われる。

市場経済システムが人類文明にもたらしている主要なメリットとしては、最も基本的には、
   (1)価格によって合理的な経済計算ができる
   (2)自動的な需給均衡作用がある
   (3)「消費者主権」の原理が作動する
   (4)為替レートを媒介とする自由貿易で国際分業の利益が得られる
といったことを挙げることができるであろうが、このなかでも、とりわけ(3)の「消費者主権」の原理が、きわめて重要な役割をはたしている。

どういうことかと言うと、市場経済とは、ありとあらゆる商品についての「人気投票」が、四六時中、行なわれている巨大な投票システムのようなものであると考えることができるのであり、人々が諸商品を購入するために支出する「お金」の一枚一枚は、いわば、投票切符のように機能しているということである。経済学の教科書で「ドル投票」(dollar ballot)のメカニズムとして解説されていることが、これである。しかも、生産財・資本財の生産・建設も、突き詰めて考えてみると「究極的な最終財」としての消費財(サービスをも含む)を生産・供給するために行なわれるのであるから、結局、当該の経済社会においてどのような商品(消費財だけではなく生産財や投資財をも含めて)がどれだけ生産・供給されるかということは、「究極的な最終需要支出」にほかならないところの「人々(ならびに政府)の消費支出」によって決まってくるということである。これが、「消費者主権」の原理である。そして、上記の、(1)価格による合理的な経済計算、(2)自動的な需給均衡作用、および、(4)為替レートを媒介とした自由貿易による国際分業も、この(3)の「消費者主権」の原理を促進・貫徹させるような効果を発揮しつつ絶えず作用しているわけである。このことこそが、市場経済システムの最大のメリットなのである。

ひろく知られていたように、かつての東西冷戦時代、米国に対抗してグローバルな覇権を争っていた超大国ソ連であったが、西側陣営の市場経済諸国における自由かつ多様で豊かな消費生活に比べて、ソ連国民の消費生活の荒涼をきわめた貧しさは、まさに言語に絶するものがあった。東欧の共産圏諸国や、開放化政策で市場メカニズム導入に踏み切る前の中国やベトナムも、同様であった。すなわち、当時のこれらの諸国におけるそのような惨烈な状況は、共産圏型の命令経済体制のもとで市場メカニズムの働きが圧殺されていたために、「消費者主権」の原理が作用しえなかったことによってもたらされた悲劇的な事態であった。このことこそが、ソ連・東欧の共産圏型体制が崩壊した最も主要な原因であったのである。

要するに、市場経済は、本質的に顧客志向型のシステムであり、このシステムのもとにおいては、社会の経済構造ないし産業構造は、直接的であるにせよ、間接的であるにせよ、結局のところ、消費者たち(政府をも含む)の「消費支出」という「需要サイド」によって決定されていくわけである。

すなわち、自由企業の競争によって駆動されている市場経済システムのもとでは、上述のケインズ主義的なイメージによる「一見、ジョークにすぎないかのごとき」施策が実際に行なわれた場合であってさえも、それによって人々の所得が高まってマクロ的に消費支出が拡大すれば、それを充足するための諸商品の生産・供給量も直接・間接に増加されることになり、そして、そのために必要とされる投資や製品開発なども行なわれることになる。しかも、市場経済システムでは、「自動的な需給均衡メカニズム」や「為替レートを媒介とする自由貿易による国際分業」の作用とあいまって、そのような「需要サイド」の変動に対応する諸商品の生産・供給やそのための投資といった顧客志向型の調整が、競争原理を通じて、自ずから、きわめて活発に、巧妙・精緻をきわめて適切に行なわれるのである。つまり、「穴を掘らせて、すぐ埋めさせる」とか「ヘリコプター・マネー」のような施策が実際に行なわれた場合でも、「生産力」を増進する効果は必ず直接・間接に誘発されるのである。そうであるからこそ、市場経済システムのもとでは、「消費者主権」の原理が貫徹されてきたのである。このことこそが、かつてのソ連・東欧などの共産圏型の命令経済システムでは、まったく及びのつかないところであったのである。

もちろん、かつて戦争中のわが国の経済がそうであったように、生産設備や労働力に余裕が無く、しかも、いたるところにボトル・ネック(隘路)が発生していて、諸種の資材や原・燃料などの入手にも厳しい制約が課せられているような条件のもとでは、「消費者主権」の原理の貫徹は不可能であり、消費需要の安易な増大を許すことは悪性のインフレ的な物価上昇をもたらすことになるであろう。しかし、現在のわが国の状態は、そういった戦争中の苛烈な状況とは正反対である。わが国の経済社会では、現在、巨大なデフレ・ギャップの形で厖大な生産能力の余裕が存在しており、資材や原・燃料の入手にも、まったく心配が要らない。つまり、政府の財政支出(政府による財貨・サービスの購入・消費)がかなり大幅に拡大されたとしても、その影響によるボトル・ネックの発生によって民間でモノやサービスを入手・消費する「機会」が制約されてコストがかさむようになるといった事態になるなどということは、まったく考えられないのが、わが国の現状である。要するに、経済学の述語を使って言えば、現在のわが国では、政府支出の「機会費用」(opportunity cost)は事実上ゼロなのである。

したがって、わが国の現状では、政府の財政支出で、諸種の「社会資本建設」のための「公共投資」の実施、「穴を掘らせて、すぐ埋めさせる」ことや「ヘリコプター・マネー」の散布、あるいは、「全国民の預金口座への入金」、等々、といった思い切った内需拡大施策を大規模に断行したとしても、経済の運行には支障は生じないし、「消費者主権」の原理も立派に貫徹される──したがって、産業構造に不合理な歪みが生じることもない──にちがいないのである。

このように考察してくると、上述したような「反ケインズ主義者」たちのネガティブな思考パターンが、このように重要きわまる「消費者主権」の貫徹という市場経済システムの根源的な特徴を否認ないし忘却し去っているからこそ、立論されているものであるということが、わかってくる。そして、まさに、そうであるからこそ、「反ケインズ主義者」たちは、「需要サイド」からの政策的アプローチであるマクロ的な有効需要政策の効果を否認し、もっぱら、規制緩和や法人税の減税といった「供給サイド政策」とされている諸措置にのみ頼っていこうとしてきたのであろう。

これは、まことに奇怪なことであり、驚くほかはない。通俗的な一般論では、新自由主義学派ないし新古典派が「市場原理主義」を信条としているとされているのであるが、上記ように考えてくると、実際には、新自由主義・新古典派の思想に少なからず影響されていると思われる現在のわが国の「反ケインズ主義的」経済学者たちには、市場メカニズムのメリットを尊重していこうとするスタンスが、むしろ、いちじるしく欠けているのである。

金融政策の効果否認が意味するもの

実は、これも最近のことであったが、やはりかなり著名なわが国の経済学者が、もう一つ別の角度から、ケインズ的な財政政策の有効性を否認するような内容のことを、大新聞の紙上で述べていた。彼の言わんとするところは、ケインズ的な積極財政政策は、その財源を、租税の徴収か国債の市中消化によって調達することになるであろうが、そうすることは、民間の資金を国庫に吸い上げることであるから、いわゆるクラウディング・アウト現象が起こって、民間経済での資金不足が結果され、市中金利の高騰と企業の投資活動の低迷、そして、それにともなうマイナスの乗数効果(すなわち波及効果)による民間経済活動の低下が生じるはずだということであった。積極的な財政支出政策によるプラスの乗数効果で景気が刺激されるとしても、結局、プラスとマイナスが相殺されるから、正味の効果はなくなってしまうだろうと、彼は述べたわけである。

彼のこのような議論が、ケインズ的財政政策に対するごく通俗的な、そして、見当ちがいもはなはだしい批判論でしかないことは、言うまでもないところであろう。

民間経済部門で、遊休資金がたっぷり有るあいだは、国庫に資金が吸い上げられても民間資金市場がタイトになるようなことは起こらないが、遊休資金が枯渇しはじめれば、クラウディング・アウト現象が現れてきて市中金利が高騰し、景気を冷やすような影響が出てくるのは、いわば当然のことである。しかし、そのような怖れが生じたときには、中央銀行(わが国の場合であれば日本銀行)が「買いオペ」(民間の有価証券を買い取る)のような金融政策措置によって資金を民間資金市場に注入すれば、クラウディング・アウト現象の発現は容易に防ぐことができるのである。国会による特別決議を得ることができれば、戦前の高橋是清蔵相が行なったように、新規発行国債を日銀に「直接引き受け」させることによっても、クラウディング・アウト現象が起きるのを防止することができる。また、筆者(丹羽)がしばしば提言してきたような「国(政府)の貨幣発行特権」の活用を財政政策のための財源調達手段とした場合にも、クラウディング・アウト現象は発生しない。

そもそも、有害なクラウディング・アウト現象を発生させてしまうような財政政策などというものは、「ケインズ的財政政策」の名に値しない。景気振興と経済成長の促進を目指すケインズ的財政政策には、「国(政府)の貨幣発行特権」の発動を財源調達手段とするか、あるいは、国債発行を財源として行なう場合であれば、必ず「買いオペ」(または「日銀による直接引き受け」)のような金融政策措置によるバック・アップを付して、クラウディング・アウト現象という副作用の発現を防止しつつそれを行なうことが大原則なのである。このことは、ケインズ主義的フィスカル・ポリシー運営の基本的ノウハウとして、今から見れば60年あまりもの昔から、すでに確立ずみの知識であるはずである。いやしくもエコノミストであるならば、このことを知らないはずはない。にもかかわらず、上記の例のごとく、「反ケインズ主義」の風潮への追従をこととしている経済学者たちは、この基本的ノウハウを忘れ去ったふりをして、あたかも、クラウディング・アウト現象の発生ということが、防ぎ得ないことであるかのごとく前提して、ケインズ的財政政策を「効果なし!」と決め付けているのである。これほど、見当違いの批判論は、またと無いであろう。しかも、これは、単なる「うっかりミス」ではなく、明らかに、故意におかされているミスであると見なければならないのである。

言うまでもないことであろうが、上述したような金融政策の合理的な運営は、資本・金融市場における市場メカニズムをフルに活用してなされるわけである。「反ケインズ主義者」たちが、上記のごとく、金融政策の効果を認識することを拒んでいるということは、結局、彼らが、このような局面においても「市場メカニズム」の働きを尊重しようとはしていないということである。そして、「市場メカニズム」の活用に立脚した合理的な政策による経済運営というスタンスも、捨て去ってしまっているということなのである。

忘却されている為替レートの機能

実は、本誌でも筆者(丹羽)が幾度か指摘してきたように、現代の「反ケインズ主義」思想の中核をなしている新古典派の経済学者グループの有力な指導者の一人であるマンデル(R.A. Mundell)は、とくに国際経済論の視点から、ケインズ的な財政政策の効果についてネガティブな判断を下していることで知られている。すなわち、彼の見るところでは、景気を良くするためにケインズ的な積極的財政政策が実施されても、その結果としてクラウディング・アウト現象が起こり、国内金利が高騰し、外国からの資金の純流入が増えて、国際通貨市場ではその国の通貨の対外為替レートが上昇する(日本の場合であれば円高が進行する)ので、輸出が困難になり、結局、そのようなケインズ的財政政策の景気振興の効果は失われてしまうことになるにちがいないと、されているのである。マンデルのこの議論の場合においても、あたかも、金融政策によってクラウディング・アウト現象の発現が防止されるようなことは無いものであるかのごとく、前提されてしまっているのである。

さらに、いっそう奇妙なことに、新古典派の思考パターンにあっては、総じて、為替レートのはたす「ハンディキャップ供与作用」が忘れ去られてしまっているようである。

自由貿易が行なわれている世界では、国際通貨市場における「市場メカニズム」の働きで、各国の生産性水準の絶対的な較差に照応して各国の通貨の為替レートが決まってくる。すなわち、生産性が絶対的に低い国の通貨の対外為替レートは割安に、生産性が絶対的に高い國の通貨の対外為替レートは割高に決まるのである。したがって、生産性が絶対的に低い国の場合であっても、その国の通貨の対外為替レートが割安に決まるので、この割安な為替レートという「ハンディキャップ」が与えられている条件で換算されると、そのような生産性の低い国が産出した粗悪で実質的にはコスト高な商品であっても、世界市場では相対的に安価な商品ということになるので、それらを輸出することが可能になるわけである。すなわち、筆者(丹羽)が、本誌でも、しばしば指摘してきたように、為替レートという特殊な価格の働きは、いわば、ゴルフのコンペでお馴染みの「ハンディキャップ」のようなものなのである。

このような為替レートの「ハンディキャップ供与」作用があるからこそ、絶対的に生産性の高い先進工業国と絶対的に生産性の低い後進発展途上国のあいだであってさえも、貿易が活発に行なわれ、国際分業が成立しうるのである。そして、まさに、このような為替レートの媒介があってこそ、リカード的な「比較優位の原理」に基づく国際分業の利益を、全世界の人類文明が共存共栄の形で享受しうるようになるのである。上記でもふれておいたように、このことも、また、市場メカニズムが人類文明にもたらしている絶大な恩恵の主要な一つなのである。

ところが、上記のマンデルをはじめとして、新古典派グループのエコノミストたちは、単一通貨による広域経済圏の形成を唱道してやまないのが常である。ヨーロッパで単一通貨としての共通通貨「ユーロ」を導入したEUが、その方向へ大きく前進しはじめているということは、周知のところであろう。究極的には、全世界を一つの広域経済圏にしてしまって、各国それぞれの通貨を廃止して単一の共通通貨のみが使用されるようにすることが、目標とされているようである。しかし、もしも、実際にそういうことになれば、各国の通貨間の交換比率である為替レートは存在しなくなるし、「ハンディキャップ供与」作用も消えてしまう。そうなってしまえば、「比較優位の原理」に基づく共存共栄の国際分業の利益を各国の国民が享受することも、不可能になる。国際分業がなされなくなった全世界は、はなはだしい貧困と弱肉強食の修羅場となりはてるであろう。すなわち、新古典派のエコノミストたちは、為替レートという特殊な価格の形成とその「ハンディキャップ供与」作用という、はかりしれない恩恵を人類文明に与えてくれている市場メカニズムの働きを、捨て去ろうとさえしているわけである。

「市場の失敗」を見ようともしない

市場メカニズムが全人類にもたらしている巨大な恩恵の特質を洞察しえていないということは、逆に言えば、市場メカニズムないし市場経済システムの限界や短所を理解しえていないということにも通じる。

従来から「市場の失敗」(market failure)として知られてきた市場メカニズムの限界・短所は、下記の7つ問題点がその主要なものである。

  • 公共財・環境財・社会資本の供給や最適配分が自由放任市場ではできない。
  • 利子率の作用に不十分性がある(「流動性のわな」の問題など)。
  • 総需要が適切に維持・成長させられない(デフレ・ギャップ、インフレ・ギャップが発生する)。
  • 当該社会の価値基準に基づいた「公正な」所得分配の達成が困難。
  • 病弱者・老人・極貧者などに「一定の保障」を与えることも自由放任ではできない。
  • 時として近視眼性がはなはだしい(天然資源の乱獲・乱掘や環境破壊など)。
  • 競争原理の働きが不十分になることもある(独占・寡占の弊害の問題)。

よく知られているように、新古典派の「反ケインズ主義」エコノミスト・グループは、とくに?の問題点を認めることを拒否している。しかし、過去の市場経済の歴史において、全世界のいたるところで、デフレ・ギャップやインフレ・ギャップが発生して、人々を苦しめてきたことは、否定しようもないところである。そして、わが国の経済においても、1970年代の後半からデフレ・ギャップが発生し、それが累増して厖大化しつつ現在におよんでいることは、隠しようも無い事実である。

そして、デフレ・ギャップが発生してしまって、総需要(すなわち最終需要ベースでの有効需要のトータル)が停滞ないしマイナス成長を続け、したがって、実質GDPもそのように停滞的・マイナス成長的になって持続しているような場合に、自由放任のままの市場経済では、それが速やかに是正されてマクロ的にしっかりしたプラスの成長が回復するといったことは、保証されえない。言うまでも無いことであろうが、個人や個々の企業の活動では、総需要を上向きにするといったことはできない。したがって、そのような停滞的・マイナス成長的な自由放任の市場経済は、ゼロ・サム・ゲーム、ネガティブ・サム・ゲームの場となりはて、?の独占・寡占の弊害がいや増すことともあいまって、「勝ち組」と「負け組み」の較差が大幅なものとなる。企業の外需依存の激化、輸出ドライブと、それに起因する当該国通貨の対外為替レート高騰(日本の場合であれば円高の進行)の「いたちごっこ」、企業の海外への脱出、産業空洞化などが必至となろう。

本来ならば、このような惨状の発生を克服・防止するために、政府によるケインズ的政策の発動が必要となるわけであるが、政府の政策担当者たちのスタンスが「反ケインズ主義」思想によって支配されていて、ケインズ的なフィスカル・ポリシーによる総需要拡大政策の実施が封止されているような状況下では、事態は救いがたいことになる。また、このような惨烈な状況が発現すれば、上記に列挙した市場メカニズムの限界・短所が、すべて、ますます先鋭化してくることが不可避となるであろう。

 ポジティブ・サム経済の実現はケインズ政策でこそ

もちろん、「新自由主義」の思想に依拠する経済学者たちといっても様々であり、市場経済システムについても、その特性やメリットをよく理解しているとともに、その限界や短所を補うための経済政策の重要性を認めることも、けっして吝かではないといった柔軟さと良識を持ちあわせているような巨匠も少なくはない。しかし、今日では米国の経済思想界から発信されてきた「新古典派」のパラダイムを信奉するグループによって、「新自由主義」学派の中核が占められてしまっているような状況である。そして、本稿で吟味してきたことに基づいて考察するならば、「新古典派」の理論的・政策的な立場は、市場メカニズムの特質と、それが人類文明にもたらしてきた恩恵を真剣に考慮しようとはしておらず、むしろ、それらを否認・忘却するようなものとなってしまっている。したがって、市場メカニズムの特徴を生かして利用しつつ効果をあげようとするような政策や、あるいは、市場メカニズムの限界や欠点を補うための政策──たとえば、ケインズ主義的政策、──についても、新古典派は、その意義や効果を認めようとはしていない。

すなわち、上記でも、すでに指摘しておいたことであるが、「新古典派=市場原理主義」であるとしてしまっている俗流マスコミ的な決め込みかたは、まったく間違っているわけである。そうであるがゆえに、この点を見たときに、いっそう、きわ立ってくるのは、新古典派の「反ケインズ主義」が、単なる理論や経験論ではなく、今では、強固できわめてアグレッシブな一個の政治的イデオロギーと化してしまっているということなのである。

また、上記の考察で、逆に明らかになってきたことは、ほかならぬ「ケインズ主義」のパラダイムの本質が、市場メカニズムの特徴やメリットを最大限に活かしながら、その限界や短所を補うことについても決定的に効果的な政策体系を工夫し、各国においても、全世界においても、ゼロ・サム・ゲーム、ネガティブ・サム・ゲームの制約を脱して、共存共栄が保障されうる右肩上がりのポジティブ・サム・ゲームの経済状況を実現しようとするものに、ほかならないということであった。

したがって、わが国の政策担当者たち諸氏が、本稿で指摘したような「反ケインズ主義」の知的混迷から脱却し、逆に、上記のような「ケインズ主義」パラダイムの本質的なメリットを活用するようなスタンスに立ちうるならば、わが国には、国運興隆の絶大なチャンスが開かれることになる。

なぜならば、今なお、わが国の経済では巨大なデフレ・ギャップが形成されたままであり、厖大な生産能力の余裕が存在しているからである。これをケインズ的な手法で活用することは、容易なことである。これがなされれば、経済の成長促進と政府財政の再建をはじめ、社会保障の充実、自然環境の改善、社会資本の建設・整備、そして、何よりも防衛力の拡充を、国民にほとんど犠牲を払わせることなく、十分に実現していくことができるのである。

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