スティグリッツ提案弁護:
スティグリッツ氏の提案は間違ってはいない━白川、滝田両氏の批判に反論する━

(『月刊日本』平成15年7月号、丹羽論文)

正統派そのもの、ス氏提案

いま、わが国の経済に関心のある人たちのあいだでは、かなり広く知られて話題のまととなっていることであるが、日本経済新聞社および日本経済研究センター共済で本年〔平成15年〕4月14日に東京で開かれたシンポジュウムでは、有名なノーベル経済学賞受賞学者であるスティグリッツ氏(コロンビア大学教授)が招かれて基調講演を行なった。そこで、日本は政府の財政財源の調達のために、「政府紙幣」の発行に踏み切るべきだとする注目すべき提言が、同氏によってなされたのである(『日本経済新聞』平成15年4月15 日付および4月30日付による)。

実は、このような「政府紙幣」発行によって得られる造幣益を景気振興のための財政政策の財源にするべきだという意見は、半世紀以上も前から、ラーナー、ディラード、ブキャナン、等々、の世界的に著名な大経済学者たちが主張してきたことであり、経済学的にはきわめてオーソドックスな政策案なのである。実は、私自身(丹羽)も、九年あまりも以前から、この政策案を「救国の秘策」として懸命に提言し続けてきた。
ただし、そのような私の提言には、かなりキメの細かい工夫がこらされていて、わが国の通貨発行についての基本法である「通貨の単位および貨幣の発行等に関する法律」(昭和 六十二年、法律第四十二号)の第四条で明確に宣言されているところの「国(政府)の貨幣発行特権」(seigniorage セイニアーリッジ権限)を大規模に発動することが、まさに「打ち出の小槌」にほかならないと論証したうえで、それによって、国民には負担をまったくかけずに、十分に潤沢な政府財源を確保し、財政再建と経済再生を一挙に達成するということこそが「救国の秘策」 であるとして、その断行を強く提唱してきたのであるが、だからといって、実際に 「政府紙幣」を大量に印刷・発行せよとまでは、私は、必ずしも、言ってはいない。ちょ っとした工夫で、「政府紙幣」の印刷・発行を実際にはやらなくても、十分に、「国の貨幣発行特権」の大規模発動による巨額の財政収入を政府は得ることができるのである。

「ちょっとしたキメの細かい工夫」とは、「国の貨幣発行特権」が、いわば、政府が無限に持っている一種の無形金融資産であるということに着目し、そのうちの、たとえば400兆円ぶんとか500兆円分の「発行権」を、政府が若干の値引きでもして日銀に売ることにすればよいというアイデアである。こうすることにすれば、新たに「政府紙幣」を発行する必要は無いわけである。日銀から政府への、その代金の支払いも、日銀券の現金で行なう必要などはなく、日銀から政府にその巨大な金額を記した小切手を渡すか、あるいは、日銀に設けられている政府の口座にそれだけの金額を振り込む電子信号が日銀から送られれば、それでよい。それだけのことだけで、政府はその巨額の収入を得て、それをどんどん使うことができるようになるわけである。
 とはいえ、今回のスティグリッツ提案は、私のものほどキメ細かく仕上げられてはいない荒削りのままであるにしても、基本的には、私がこれまで繰り返し行なってきた政策提言と、同質的なものである。

ところが、このスティグリッツ提案に対しては、上記のシンポジュウムの席上で、日銀理事の白川方明氏が批判的な発言をしており(上掲『日本経済新聞』平成15年4月30日付)、 また、同じく『日本経済新聞』同年4月27日付号の「時の目」欄では、同紙の編集委員の滝田洋一氏が、スティグリッツ氏が提案した「政府紙幣」発行政策を批判するかなり大き な論説を書いている(この滝田論文は、同紙の版の違いによっては、掲載されていない場合もあったようである)。しかしながら、この白川、滝田、両氏の議論は、きわめて大きな誤りを含んでいると、考えられねばならない。

 日銀券と政府紙幣とは決定的に違う
   ──造幣益の有無を認識し損なった白川氏──

白川氏は、このシンポジュウムで、「政府紙幣」も「日銀券」も紙幣であることには変 わりはないから、スティグリッツ提案は無意味であると、批判している(同じく『日本経済新聞』4月30日付号)。しかし、この白川氏の意見は、「政府紙幣」と「日銀券」のあいだにおける、造幣益の有無という決定的な違いをまったく見逃してしまっている。
 言うまでもなく、「日銀券」がいくら発行されても、それによって政府の財政収入と なるような造幣益が生じるわけではない。かりに、新規に発行された国債を日銀が購入し、その代金を新規に発行された「日銀券」で政府に支払ったとしても、それは、結局、政府が日銀からそれだけの額の借金をしたということであり、政府の債務がそれだけ増えるわけであるから、政府にとっては正味の造幣益が得られることにはならない。また、よく知られているように、「日銀券」の発行額は日銀の負債勘定に計上されるのであるから、日銀自身にとっても、「日銀券」の発行によって造幣益が得られるわけではない。

しかし、そのような日銀券の場合とはまったく異なって、わが国の現行法のもとでは、「政府貨幣」の発行額は、政府の負債としては扱われないのである。現在、発行されて流通している「政府貨幣」の総額は4兆3千億円前後であると思われるが、それは、政府 の負債勘定には計上されてはいない。その発行額(額面価額)から原料費や加工費などの造幣コストを差し引いた差額としての正味の造幣益は、政府の財政収入として一般会計に繰り入れられてきたのである(このことは、旧大蔵省スタッフの共同執筆によって平成6年に大蔵省印刷局より公刊された『近代通貨ハンドブック──日本のお金──』、 114頁でも明らかにされている)。当然、「政府貨幣」としての「政府紙幣」も、同様な扱いとなり、政府に造幣益による(負債ではない正味の)財政収入をもたらすことになる。この点こそが、「政府紙幣」と「日銀券」の決定的な相違点である。白川氏は、 この重要なポイントを知らないようである。榊原英資氏も、同氏の『中央公論』平成14年7月号の論文を見るかぎりでは、このことを知らないでいるようである。スティグリッツ氏が、政府紙幣の発行は「債務としては扱われず、…‥政府の財政赤字には含まれない」(『日本経済新聞』4月30日付に掲載された同氏の基調講演要旨) と言い切っているのは、さすがである。

「太政官札」発券の断行が明治維新成功への決定打だった

滝田洋一氏が『日本経済新聞』4月27日付号の「時の目」欄に書いたスティグリッツ提案批判の論文では、「太政官札のを踏むな」と大きく見出しが付けられており、明治維新のさいの不換政府紙幣(金貨との公定レートでの交換が約束されていない政府紙幣)としての「太政官札」の発行を回顧して、それが基本的には失敗であったと判定し、それと類比しつつ、今回のスティグリッツ提案に反対するという議論の進めかたがなされている。
 「太政官札」の発行を失敗ないし汚点であったと決め付ける明治維新史の見かたは、総じて、左翼陣営の歴史家たちのステレオタイプな姿勢である。滝田氏も、そのような 見かたに追随しているわけである。しかし、坂本竜馬と光岡八郎(由利公正)の夜を徹しての協議(慶応3年10月末)で基本方針が定められ、慶応4年(明治元年)2月から実施されはじめた「太政官札」の発行は、客観的に見れば、明治維新を成功させるうえで、まさに決定打として役立った施策であったのである。

すなわち、王政復古(維新政府の樹立)の大号令が発せられた慶応3年末から戊辰戦争が終わった直後の明治2年の9月までの期間をとって見てみると、当時の維新政府は、戊辰戦争のための戦費をも含めて5129万円の財政支出を行なっているのであるが、そのう ちの実に93.6パーセントにあたる4800万円が「太政官札」という不換政府紙幣の発行による造幣益でまかなわれているのである(『明治前期財政経済資料集成』第4巻、48〜61頁)。
 言うまでもなく、当時の維新政府は、まだ基盤が脆弱で、威令も十分には行なわれるにはいたっておらず、租税を組織的に徴収する力も微弱であり、まさに、累卵の上に立 っているような危ない状況にあったのである。したがって、戊辰戦役のための戦費支出をも含む巨額の財政支出の93.6パーセントもをまかなった「太政官札」発行による造幣 益が、もしも無かったとしたならば、維新政府は存続しえずに崩壊していたにちがいない。このことを想起するならば、当時、維新政府が「太政官札」の発行を断行しえたことこそが、維新の大業を成功させた決定的な要因であったと、考えねばならないのである。

ケインズ的な成果を予見していた由利公正

「太政官札」の発行開始から2年後には小額紙幣として「民部省札」の発行もはじまったが、これも不換政府紙幣であった。明明治5年からは、「太政官札」と「民部省札」は、 印刷をいっそう巧緻なものとした「新紙幣」とよばれた紙幣に取り替えられた。滝田氏は、 「太政官札」の価値が下がって「ただの紙切れ」になる惧れが出てきたから、「新紙幣」と交換することで通貨価値の維持がはかられたのだと書いているので、この滝田氏の論説 を読んだ人は、不換政府紙幣である「太政官札」と「民部省札」が兌換紙幣(公定レートでの金貨との交換が約束されている紙幣)である「新紙幣」に交換されたのだというイメージを持ったのではないかと思われる。しかし、そのようなイメージは誤りである。当時のこの「新紙幣」も、印刷や図柄がやや立派のものになったとはいえ、不換紙幣とし ての政府紙幣であったことには、なんら変わりはなかったのである。

もちろん、維新政府の基盤が固まり、税収が増えるにつれて、毎年の財政支出が政府紙幣の発券による造幣益に依存する程度は徐々に下がっていったのであるが、それでも、たとえば明治5年になっても、政府の財政支出が政府紙幣の造幣益に依存していた割合は、 いぜんとして30パーセントにおよんでいた。しかも、これほどにも巨額の不換政府紙幣が発行され、その造幣益を財源として、文明開化のためのインフラストラクチャー整備や防衛力充実のための巨額の財政支出と諸産業への政府融資が大々的になされ、さらには、廃藩置県にともなう旧藩の藩札等債務の償還なども少なからぬ額で行なわれたにもかかわらず、当時のわが国の国内物価は西南戦争が勃発した明治10年ごろまでは、基本的には安定していたのである。明治元年の物価水準が、その前年の慶応3年の物価水準に比べて10パーセントもがったあと、さすがに、戊辰戦役の影響(若干のタイム・ラッグをともなった 影響)をもろに受けた明治2年には、物価の上昇がかなり生じたが、それ以降は、わが国の物価はきわめて安定的であり、明治4年ごろになると、物価水準は明治元年の物価水準とほぼ同じところに落ち着き、明治10年の物価水準は、明治元年のそれよりも8パーセントも低く、慶応3年の物価水準と比べると18パーセントも低くなっていたのである(西南戦争のための戦費支出に起因する物価上昇は、やはり若干のタイム・ラッグをともなって、その翌年の明治11年ごろから生じた、── 山本有造『両から円へ』、12頁の物価指数表を参照)。

ということは、明治初年のころには、徳川幕府の倒壊による先行き不安といった事情による経済活動のがあり(江戸の街が灯の消えたようにさびれたと伝えられている)、マクロ的 な生産能力の遊休、つまり、デフレ・ギャップが、巨大に発生していたということを物語っているわけである。すなわち、明治の初年から十年間も物価が安定していたということは、不換政府紙幣の大量発行を財源としてなされた文明開化政策や軍備近代化の推進などによる有効需要の大幅な増大に対応して、そのような遊休生産能力が活用されはじめて、諸種の物資や商品の供給も順調に増えることができたのだということを意味しているのである。まさに、ケインズ経済学のセオリーどおりのプロセスが妥当していたということである。
驚くべきことに、由利公正は、ケインズ理論が体系化される七十年も前に、このようなプロセスを見通していたらしいのである。故村松剛氏の名著『醒めた炎』でも、「太政官札」発行による由利公正の財政政策が、まさに、そのように意義づけられているのである(同書、下巻、283〜286頁)。このようにつぶさに回顧してみると、滝田氏が、「太政官札の轍を踏 むな!」と叫んで、スティグリッツ氏の「政府紙幣を発行せよ」という提言を葬り去ろうとしているのは、根本的に誤った態度であるということが明らかになるのである。

「銀紙比率」を通じての円安効果

滝田氏は、「太政官札」について、それが不換紙幣であり発行額の制限もなかったから、流通量が急増し、「…‥太政官札の流通価格は額面価格を下回る羽目になった」と書いて、 「お札といえども、庶民からそっぽを向かれると、ただの紙切れになる」と述べているのであるが、この「太政官札の流通価格が額面価格を下回った」と表現されていることの本当の意味を、現在の一般読者は、たぶん、理解することが困難であろう。実は、このような表現で滝田氏が言及しようとしたのは、疑いもなく、当時の「銀紙比率」と呼ばれていた指標の動きについてのことにほかならないと、解釈してよいようである。

幕末から明治中期にかけての当時のわが国の対外決済に、普通に用いられていたのは銀貨(メキシコ銀貨が多用されていた)であった。他方、国内で流通していたのは、言うまでもなく、不換紙幣(その大部分は政府紙幣としての「太政官札」、「民部省札」および「新紙幣」)であった。もちろん、当時は、毎日、そのような銀貨と国内紙幣との交換比率の相場が立っていたわけである。いわゆる「銀紙比率」がそれであった。これは、現在のわれわれ の感覚での「円の対外為替相場」にあたると考えればよいであろう。当時は、全世界的には、十九世紀の「大不況期」(1873〜96年)として知られる長期不況が発生していたころであり、 海外諸国の物価は低落傾向にあったので、銀貨はそのような海外物価の低落を反映してその価値が上昇し、そのことが、わが国の「銀紙比率」相場において、銀貨の価値を国内で流通 している紙幣の価値に対して相対的に高める傾向をもたらしていた。もちろん、この「銀紙比率」は貿易収支の影響をも受けて変動した。当時のわが国は、おおむね輸入超過であったので、輸入商による対外支払いのための銀貨需要が強く、いやがうえにも銀貨の価格が高騰する傾向があったのである。そのような事情があったにもかかわらず、西南戦争が勃発した明治10年までの10年間について見てみると、紙幣の価値が銀貨の価値にくらべて最も安く評価された交換比率相場となった年であったところの明治7年でさえも、「銀紙比率」は1.038にすぎなかった。すなわち、わずかに3.8パーセントの相対的な「円安」となっていたにすぎなかったのである(ただし、西南戦争の後になると、その戦費支出の影響で明治14年ごろまで続いた国内インフレの結果として、いっそう「円安」になったことは言うまでもない)。しかも、このような「円安」は、わが国の輸出を促進する効果も生んでいたはずである。いずれにせよ、当時の実際の状況は、滝田氏が書いたような「政府紙幣がただの紙切れになる」などといった事態とは、まったく無縁であったのである。

「国の貨幣発行特権」発動による総需要拡大で経済興隆へ
  ━━通貨への信任が失われる心配などは全くない━━

滝田氏は、政府紙幣が発行されはじめたときに、内外の投資家が、日本の政府は「借金を返せなくなったので、返済義務のない政府紙幣を発行しはじめたのではないか」という疑い を抱きだすと、日本の通貨への信認が一挙に崩れ、日銀券も通用しなくなって、日本ではドル札が流通通貨となるといった「円の死」の状況となると述べ、「太政官札の轍を踏むのは日本経済の悲劇だ」と締めくくっている。
 この滝田氏が述べたような不安について吟味・分析しようとする場合には、そのような「政府紙幣」の大規模な発行、あるいは、私(丹羽)が提言しているように、直接には「政府紙幣」を発行せずに、ただ、400兆円ぶん、ないし、500兆円ぶんぐらいの政府貨幣の「発行権」を政府が日銀に売るといった間接的なやり方での「国(政府)の貨幣発行特権」の大規模な発動によって、巨額の財政収入が得られるようになったときに、わが国の政府は、そ の膨大な新規の財源を用いて、どのような政策を実施することになるであろうかということを、まず、具体的かつ現実的に考えてみるべきである。
 現在、わが国の経済においては、総需要の不足によって、膨大なデフレ・ギャップが生じている。すなわち、総需要が低迷しているために実現されえずに空しく失われている潜在GDP額が、年間400兆円にも達しているのである。このことを旧経済企画庁および現在の内閣府 は秘匿してきたが、しかし、このように、現在のわが国経済におけるデフレ・ギャップの規 模がきわめて大きいということは、実証的に容易に計測しうることであって、疑う余地はない。言い換えると、現在のわが国の経済においては、このような膨大な規模のデフレ・ギャ ップという形で、想像を絶するほどに巨大な「生産能力の余裕」が存在しているのである。

このように「生産能力の余裕」がきわめて大きいのであるから、上述のごとく、租税徴収でもなく国債発行でもない「国(政府)の貨幣発行特権」の大規模な発動という手段で、国民にはまったく負担をかけずに、巨額の財政収入を新規に得ることができるようになった場合、政府が、その巨大財源を用いて、総需要拡大のためのケインズ的な積極的財政政策を大々的に、そして、幾年も続けて実施すれば、なにしろ、「生産能力の余裕」がいくらでもあるのであるから、需要の増大に応じてモノやサービスはどんどん生産され供給されうる。すなわち、このような状況では、需要に対して商品の供給が追いつかないなどといった事態は起こらないのであるから、物価が高騰することもなく生産が大幅に増え、実質GDP は高度成長となり、国民の実質所得と生活水準も急速に向上する。しかも、これは一年かぎりのことではなく、中・長期的に持続させていくことも、困難ではない。そのような理想的 な好況の高度成長軌道に乗った経済状態になれば、いわゆる不良債権、不良資産なども、あ っという間に優良債権、優良資産に一変する。

財源が、事実上、無尽蔵なのであるから、社会資本の完備、自然環境の改善、防衛力の整備、等々に加えて、年金制度をはじめ社会保障・社会政策の諸制度も十分に充実させることができる。また、これまでは国債発行残高の増加などで巨額に累積してきた政府債務も、この新規の無尽蔵な財源を用いて、どんどん償還していくことができるようになる。もとより、経済が高度成長になれば、政府の税収も飛躍的に自然増となり、必然的に、政府財政のプライマリー・バランスも黒字化する。

まさに、良いことずくめになるわけである。そうなれば、外国の投資家たちも、安心して 日本の証券市場や公社債市場に多額の資金を投入しようとするであろう。このように、きわめて良好な経済状態になったときに、そうであるにもかかわらず、わが国の通貨に対するわが国民の信認が失われるなどということは、ぜったいに、あり得ることではない。滝田氏のペシミスティックな指摘は、まったくの見当ちがいなのである。

Back to Top